やや信用できること

耐震データ偽造問題で建築業界全体が大揺れで、問題としてはアメリカ牛肉問題や雪印三菱自動車みたいな社会問題になった。
こんなの記事(参照)もあるが、ちょっと報道はワイドショー的になっている。
もっとも「偽造」は図面や仕様や書類の話で単純に仕組みの話と思うところ。いままで建築で話題になってきたのは、図面や書類が完璧でも「手抜き」という別の問題だ。戸建住宅で木造や2×4や鉄骨などいくつか工法があるが、工法がなにかに差はなくどの工法でも図面通りに施工しているかどうかが安心や信用の問題なのだと思っていたから、モラルを通り越してその確信的手抜きが構造躯体の計画時に起こっていることで今回の件はびっくりさせられるのだ。
設計と施工と監査をひとつの会社がやればおかしくなるのは当然で、社内の販売と企画と工事は立場の違いで利害対立があるのだから監査だけでも別にしないととは思っていた。施工会社が施工監査会社を指定しても消費者にはクリーンに写らないとは思いつつ思考の着地点がみいだせないままであったが、そんな中、R30::マーケティング社会時評ファイナンスした人が責任取れば?』(参照)が新たに考えるきっかけになった。

gskay氏が書いているように、問題の本質は「違法な建築のはずの建物が、基準に合致していると判を押され、それを正しいと思って金融機関が購入者たる住民に住宅ローンを融資、つまり信用を供与した」ことなのである。ここでもし違法な建築であるということが分かっていれば、カネのやり取りはヒューザーと建設会社や設計士の間、つまり業者同士だけで終わっていたはずなのだ。建築確認が通ったということが、金融機関にファイナンスを可能にさせ、住民がそれを買うことを可能にした。つまり被害を一般人にまで広げた。

そうなのだ、建築確認自体がめくら判になるところに問題があるのか?
自分が新米ころを思い出した。なにかの企画書作成作業のなかでチェックのために上司に渡したときに、チェックがすまないと次の仕事にいけないからGOサインを待っていた。すぐにチェックしてくれると思っていたら「おまえが3日かけて練り上げたものなら、おれだってチェックにそれなりの時間がかかるだろ」といわれて、そらそーだと思ったものだ。
作りこむ過程でそれなりのエネルギーが消費されれば確認だってそれなりのエネルギーは必要になろう。書面で通るのならそれなりの倫理やシステムが必要なのだが、その前提が崩れたのだ。施工監査として第三者評価機関ががんばればよいレベルではない。
そこで別のことも思い出す。むかし何かを調べているときに「やや信用に値する認証システム」とかそんな感じの仕組みが研究されている記事をみかけた(探したけど見つからないのでうろ覚え・・)。英語の直訳だったのでへんな名称になっていた。内容はこんな感じ。人目のあるレストランでテーブルの上にある卓上塩になにか混ぜられていると疑ってかかる人はそういない、そんな感じの信用システム─みたいな解説だった。そういう発想が面白いなぁと思ったが、あれはどうなったのかな。PKIよりPGP的な、ひとつの認証局ではなく信頼の輪的な建築確認システムが求められるということなのかと思ったりする。