知性とリテラシー

ちょっとしびれた。広告β『ブランドの裏には、知性ある消費者がいる』(参照)より。

われわれはコミュニケーションをとる際に、メッセージそのものとともに、そのメッセージが発せられた文脈、発信者が別の機会や状況においてどのようなメッセージを出しているのか、といった背後の情報を加味して相手に対する総合的な判断を行う。人間には、それだけの知性がある。

いわゆる「メッセージ」を直接には発していないもの、つまり商品や企業体でも同じだ。商品というのは、企業が無数の判断を重ねて作り上げたもの。その背後には判断があり、判断を生み出した姿勢がある。消費者は商品を見ながらも、背後にある姿勢について無意識の判断をしている。

Googleはブランド力があると何かの調査で見たが、Googleが広告などを通じて何かのメッセージを発する機会を見たことはそれほどない。かといって、公的なGoogleの理念を見たことがある人も多くないだろう。それでもブランドイメージらしきものがあるのは、Googleのインタフェースや、そのアルゴリズムを通して、人々がGoogleの姿勢を読み取っているからである。

人を評価していく中でも、日々の文脈の蓄積がその人の評価になっていくとおもう。「この人は、ここでこう言うか!?」「こういうことやっちゃうんだ!?」とか。ネガティブだけでなく、「こういう風に受け止めることができるんだ」「こういうことができるんだ」とポジティブなことも然り。
人は、発言とか行動とかから、その発言その行動に至る背景を感じ取ることができる。
企業の行動、判断も同様に感じ取っているのだなと気付かされた。

テラ豚丼」の指摘に関して引用されている、mediologic『吉野家の件で、「なんでや」と思ってた。』(参照)で、“メントスxコーラ”騒動時のコカ・コーラの対応と比較している。

その点、“メントスxコーラ”騒動時に、それらの動画に対しAdweekの記事で「おもしろかったが、ブランドのパーソナリティにあってなかった」とコメントを述べ、かつ自らのサイトで“The Coke Show”を展開したコカ・コーラ社はCGM時代のマーケティングをうまくキャッチした、とやはり思う。

色々な判断の積み重ねがブランドを形成していくのだ、ということを考えさせられる。
少し前にみたTech-On! - 思索の副作用 -『最も効果的なブランドの壊し方』(参照)を思い起こす。

この失敗を欧州のブランド保有企業は貴重な教訓とした。つまり、「何かをやることがブランドの価値損失につながる可能性はないか」ということを精査するようになったのだ。

ソニーや松下のように、さすがの商品開発もブランド形成そのものなんだけど、同様に「しないこと」を判断することだってブランド形成にとって重要なことなのだ。そう考えて足元をみると「あ〜やっちゃったんだ!」というのは結構多いことに気づく・・。メッセージ発信側にはKYというのかリテラシーというのか、受け手側の知性を感じ取れないとならない。